概要
第一章 大本山成田山仙台分院の概要
第一節 大本山成田山仙台分院について
大本山成田山仙台分院は宮城県仙台市青葉区にある真言宗智山派(注1)の寺院で、昭和57年開山と比較的新しい寺院である。正式名称は成田山経ヶ峰国分寺で、総本山は京都の智積院、大本山は千葉の成田山新勝寺であり、国分寺は新勝寺の分院である。
この寺院が建立されたきっかけは二つある。一つ目は、前住職の父親が若いころに曹洞宗の僧籍に入っていた関係で、いつかは寺院を造りたいと考えていたことだ。二つ目はかつて17代にわたって現在の仙台近辺に領土を有していた国分家が、伊達政宗に追われて、現在の福島へと逃れたという歴史を背景としながら、追われる以前の国分家を供養する寺もなく、人もいないことに気づき、国分壮氏が、福島県から仙台に出てきて事業を始めるにあたり、自ら寺院を建て供養しようとしたことがきっかけである。
大本山成田山仙台分院は祈願・祈祷を主に行う寺院として知られており、境内に日本一高い場所にある不動明王が設置されている寺院としても有名である(下図参照)。また、信徒数は一万人を超え、正月や節分の時期は信徒たちで賑わっており、宮城県内で有数の初詣地としても知られることから、初詣においても多くの参拝者が足を運んでいる。
大本山成田山仙台分院概要略図
西暦 | 内容 | 備考 |
---|---|---|
1982年(S57) | 成田山経ヶ峰国分寺開山 | |
納骨堂開始 | ||
水子供養開始 | ||
2002年(H14) | 永代供養墓開始 | |
2004年(H16) | 人形供養開始 | 人形供養祭の開始は 2008年頃から |
2006年(H18) | ネット水子開始 ネット祈願開始 | |
2010年(H22) | お守り通販開始 | |
2014年(H26) | ネット水子終了 ネット祈願終了 | 新しく受け付けはしないが これまで同様アクセスはできる |
第二節 寺院の区分
寺院と一言で言ってもさまざまな種類が存在する。その分類について、奈良康明氏は著書の中で次のように述べている。 明確な機能的区別ができないケースはあるが、寺院は、先祖の供養を行う地域社会の菩提寺である回向寺と、祈祷寺、すなわち観音菩薩などの現世利益に訴えた布教活動がなされる信徒寺とに大別される。これらの寺院では、
- 檀家の葬儀、お盆のお経回りである棚経、年忌・回忌などの追善供養
- 釈尊や宗祖、そして先師への謝恩法要やお盆、お彼岸のような先祖供養などの年中行事
- 個人を対象とする回向や祈願、祈祷を通じての布教活動
- 檀信徒を中心に営まれる信行会、参禅会、念仏講などの諸活動
- 社会的文化活動
第三節 祈祷寺院について
祈祷寺院とは何かを語るにあたり、まず江戸時代における幕府の政策について述べる必要がある。キリスト教などの他宗教の介入により危機感を抱いていた当時の幕府は、二つの宗教政策を行うことで人々の信仰を規制し、寺院の権力を強めようとした。その二つの宗教政策というのが、「本末制度」と「檀家制度」の二つである。
一つ目の制度は、本末制度だ。本末制度というのは、仏教寺院における本寺と末寺の封建的階級制度である。制度自体は中世から存在していたが、本格的に制度として定着したのは近世からであり、1615年に徳川家康が寺院法度を布下したのがきっかけである。この制度により、江戸幕府は全国の仏教寺院を宗派ごとに本山・本寺によって組織化させ統制させようとした。
そして二つ目の制度が檀家制度だ。祈祷寺院の出現経緯を述べるにあたっては本末制度よりも檀家制度が大きく関わっている。圭室文雄氏は檀家制度の確立について以下のように述べている。 檀家制度の成立過程には大別すると、四つの段階があると考えている。第一段階は1550〜70年頃で、寺がこれまでの開基檀家ならびにその一族の菩提供養から、民衆の葬祭を積極的に行うようになった時期である。ゆるやかな寺檀関係形成の時期といってよいと思う。第二段階は1614〜15年頃で、幕府が伴天連追放令を出し、キリシタンを捕え、強制的に仏教に改宗させ、身分保証のため「転切支丹寺請証文」(注2)を作成させた時期。政治権力の強制による寺檀関係といえる。このことが契機となり、キリシタン以外の人々も寺との関係を結ぶようになったと思われる。第三段階は1631〜40年頃で、幕府が鎖国令をしき、一方でキリシタンの本格的な弾圧に乗り出した時期で、とりわけ島原の乱以後、日本人全員に寺請証文を義務付けた時期である。第四の段階は日本人全員の戸籍(宗門人別帳)(注3)が作成された1665〜70年頃である。この時から寺院の住職の請印がなければ戸籍に入ることはできなくなった。それゆえ、檀家制度の成立がほぼ完璧に形成された時期といえる。この戸籍の作成に寺が関わりをもったことが、それ以降葬祭檀家を軸とした寺院経営が安定していく契機となったといっても過言ではない。檀家制度はおおよそこのように段階を踏んで成立した。 檀家制度がこのように江戸時代において確立したため、日本では現在に至るまでその檀家制度の流れを汲んでいる。現在は当時のように檀那寺を自由に変えることができないというようなことはなく、自由に寺院を選べるが、檀那寺は当時のままのところも少なくない。このような檀家制度の確立による影響を大きく受けたのが祈祷寺院なのだが、理由としては、それ以降檀家寺を建立しても檀家を新しく得ることは事実上不可能であったということだ。それ故、お寺を新しく建立する際は檀家寺以外のお寺でなければその後の運営は難しいということもあり、これを境に祈祷寺院の数が増えていったのである。このことに関しても、圭室氏は次のように述べている。 幕府は、寛永八年(1631)年に新建寺院の建立を禁止する法令を出している。さらに、寛永六年(1668)年十月の『覚』に、「新地建立之寺御停止之旨、三十八年以前被仰出之処」とみえ、さらに、1688年四月『寺院古跡新地之定書』には、「寛永八年未年起立之寺院は古跡」とみえている。つまり、幕府が、寛永八年を境として、それ以前のものを「古跡」、それ以降のものを「新地」とはっきり区別していることが明らかである。すなわち、原則として寛永八年以前建立の寺院は葬祭寺院、以降の建立寺院は、祈祷寺院である。 祈祷寺院が出現し、その数を増やしていった背景として、寺院側と檀家側それぞれの思惑があった。寺院側としては、寺請制度が確立されている中では、新しく建てられた寺院は経営不可能であることだ。檀家側としては、当時の百姓の経営が安定してきて、寺院へ拠出できる剰余が創出されたことである。このような流れで檀家制度は確立し、祈祷寺院が出現するに至ったのである。つまり圭室氏の定義する祈祷寺院とは「寛永八年以降に建てられた寺院」のことである。
よって、本稿では祈祷寺院を「寛永八年以降に建立された寺院で、祈願・祈祷を中心に寺院を運営している寺院」と定義し論を展開する。 (注2)転切支丹寺請証文・・・江戸時代に寺の僧侶が発行した切支丹でないことの証明書。寺請状ともいう。縁組・旅行・移転・奉公など身分異動や地理的移動のさいに身分証明書として寺から受けることが義務付けられた。
(注3)宗門人別帳・・・宗門改帳ともいう。家ごとに檀那寺、戸主以下家族の名および年齢、妻の実家、嫁入りした年月日、雇人があれば雇入れの年月などが記載され、これに戸主の判を押し、檀那寺、庄屋、五人組頭の証印を受けて、証文改役に提出した。
第四節 対象と方法
本稿では現代における祈祷寺院の中でも比較的新しい寺院である大本山成田山仙台分院を対象として、現代の祈祷寺院について考察をしていく。大本山成田山仙台分院は開山してから約30年しか経っていないため、信徒を獲得するために様々な試みを行っている。そのため様々な取り組みの中から論を展開できると考え、この寺院を対象とした。 調査方法は、住職へのインタビュー調査を計4回、信徒へのインタビュー調査を計1回行い、その内容をもとに考察を行う。 大本山成田山仙台分院は地元地域の卒業論文に協力しています。
大本山成田山仙台分院を対象とした卒業論文について、無断掲載、無断複写を禁じます。 祈祷に関するお問合せは下記にて承ります。 大本山成田山仙台分院
住所 :〒980–0845 宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉33-2
電話番号:022–225–8640
FAX :022–225–8655